テン年代を変えた相対性理論 その頭脳、やくしまるえつこの頭の中 後編

 

rykaworu.hatenablog.com

 

相対性理論とはデビュー当初から一貫して、世間からは「時代にそぐわず、趣味が悪い」と一蹴される音楽を、一般的にはあり得ないとされる組み合わせによって高品質のポップ・ミュージックに昇華する実験を行ってきたバンドだったのではないか?」

 

真部と西浦の脱退以降、相対性理論・・・もとい、やくしまるえつこが特に注力してきたこと・・・そのカギを解くには、まず彼女のソロ・ワークスを見ていく必要があります。

 

「シンクロ」以前からやくしまるえつこは個の活動を始めており、詩の朗読のほか、ソロデビューシングル「おやすみパラドックス」(2009)は彼女の相対性理論以外のコラボレーションの可能性を見出した作品でした。しかし、それらはどちらかというと従来の相対性理論、すなわち、「台詞を言わされている=操り人形的なやくしまるえつこ」だったり「ポピュラリティに対して強い意識を持ったポップス」に基づいたりしたもので、完全な新機軸かというと、そこまででもないという印象でした。

 

ターニングポイントとなったのは「やくしまるえつこd.v.d」名義でリリースしたアルバム「Blu-Day」(2010)と、「やくしまるえつこメトロオーケストラ」名義のシングル「ノルニル/少年よ我に帰れ」(2011)で、これらはやはり「シンクロ」以降の作品(但し、「Blu-Day」と「シンクロニシティーン」は同時発売)にあたります。

 

まず、「Blu-Day」はツインドラムと映像作家からなるチーム、d.v.dとのコラボアルバムで、映像と音楽の同期を狙った意欲作です。やくしまるえつこのボーカルは複製、分断、加工され、歌というよりかはむしろ楽器の一部として扱われており、ツインドラムによる複雑なビート、音楽と相互作用する映像効果も相まって従来の相対性理論、J-POPとは一線を画す作品となっています。「だいたい、12時です」「お目覚めですか、手袋さん」といった、それ自体にまるで意味がない、でも魅力的な台詞の数々に翻弄されながらも、不思議とポップであることも保持する奇妙な楽曲群は、やくしまるえつこが取りかかりたかった新たな実験の前準備とも言えるのではないでしょうか。

 

さて、3分~5分の間に印象的なフレーズを盛り込むという「規格化された大衆音楽」が主流になって久しい現代において、かつて権威の象徴ともいえた形式主義的音楽は、かえって新鮮で前衛的な印象を与えつつあります。「ノルニル/少年よ我に帰れ」(2011)は、どちらもオーケストラを全編にわたり採用した長尺の楽曲で、同じくストリングスを多用した前作「ヴィーナスとジーザス」(2010)に比べると、よりクラシカルで、曲の展開も複雑化し、組曲のようなダイナミクスを持っています。ただ、19世紀の形式主義にまで立ち返るようなことはせず、あくまでJ-POPのフィールドで戦えるキャッチーなメロディや、本人のキュートな歌声をもってバランスをとっています。以降やくしまるえつこはこの「構築的音楽」の傾向を強めつつ、思いつく限りのアイデアの実現に励んでおり、80年代を彷彿とさせるサウンドアレンジを施したももいろクローバーZへの提供曲「Z女戦争」(2012)は緻密に作られた7分もの長尺作品だったり、自身初のソロアルバム「RADIO ONSEN EUTOPIA」(2013)は、これまでのオーケストレーション溢れる曲をすべてバンドアレンジに変更して収録したりと、「アナログ⇔デジタル」「過去⇔現代」「大人数⇔少人数」といった様々な音楽の可能性について、文字通り「実験」するようになりました。

 

もう少しソロ・ワークスの話をさせてください。坂本龍一のレーベル・commonsから「Yakushimaru Experiment」名義でリリースしたアルバム「Flying Tentacles」(2016)は、彼女がどんな音楽だろうと必ず保持してきたポップの要素を一切取り払い、「実験音楽」に振り切った作品です。夏目漱石の随筆「思い出すことなど」の朗読(漱石の頭蓋骨から復元させたという、漱石本人の声とともに朗読している)や素数を譜面化したという「ウラムの螺旋より」、とうとうdimtaktといったオリジナルの楽器まで登場した14分もの大作「光と光と光と光の記憶」など、やくしまるえつこの世界観はこれまでの「分かるようで分からなかったもの」から「完全に分からないもの」へと変化を遂げました。確かに、ライナーノーツに「実験的であることとは、ポピュラーではないことを意味しないし、ポピュラーであることと矛盾しない」と書かれているように、私のような素人の感性にも訴えかけてくる感動部分はあります。ただ、この作品がアバンギャルドの方向に相当傾いていることは事実で、聴き手をかなり選ぶという点において、これまでの作品には見られない傾向だと言えます。

 

 

ようやく話は戻って、では、大衆ポップスでも実験音楽でも、大人数でも少人数でも、デジタルでもアナログでも何でも取り扱える、いわば完全なる自由世界を手に入れたやくしまるえつこにとって、今「相対性理論」をやる理由はどこにあるのでしょうか。

 

それは、メンバーが流動的であるという特殊な性質こそ持っているものの、相対性理論が紛れもない「バンド」であるからです。バンドとは、メンバーが限られ、曲種が限られ、パフォーマンスが限られ、使える音数が限られる、とても有限的な存在ですが、同時に無限の可能性を持ったものでは決して実現しえない特性をいくつも持っています。無限は有限を内包しないというある種の矛盾については、おそらく皆さんの好きなバンド、ユニットを思い起こしてもらえればなんとなく理解してもらえると思います。やくしまるえつこはソロで「無限的」な実験を、バンドで「有限的」な実験を行おうとしており、どちらか片方のみで双方を補うことはできません。だからこそ彼女は「相対性理論」をするのです。

 

その点において、メンバーが一新され、バンドのイニシアチブをやくしまるえつこが握った4th「TOWN AGE」(2013)は方向性が曖昧になっているきらいが確かにあったと思います。多くの否定的な意見にて「相対性理論の幻影を追っている」と指摘されていたように、新しい相対性理論でこの音楽をする意味や、ソロとバンドの違い、実験性と大衆性のバランス配分が定まりきっていない印象を持たれたのでしょう。しかし、それらは「終わったものの残骸」ではなく「再生したてで発展途上中」と呼ぶべき代物でした。「中毒性」という曖昧な評価から解き放たれた情緒性の高い歌詞や、全体的にニューウェーブ、エレポップの色を強めた楽曲群には新しい相対性理論の原型が窺えます。たとえば「たまたまニュータウン」は、やくしまるえつこのソロ・ワークスから得た実験的要素と、バンドが元来持っていた言葉の妙とポップ性が融合した、親しみやすくも面白味のある曲で、ここからも相対性理論の根幹にある「アバンギャルドとポピュラリティの融合」は受け継がれているということを実感できます。

 

そんな新しい相対性理論の片鱗が見えつつも、不当な評価をされることが多かった「TOWN AGE」、そして相対性理論に対し、もどかしい思いを抱き続けていたファンにとって、最新作「天声ジングル」(2016)は大変な喜びと興奮をもって受け入れられたと思います。サウンドのバリエーションが増した永井のギターとやくしまるえつこのバンドを意識したライティングは完璧に相対性理論モード。これはやくしまるえつこの前衛性を強く打ち出したソロを経て、相対性理論としてのアイデンティティ―ポピュラリティの中で創造性を見出すという実験をすること—が際立ち、また、その作業精度が高まったからこそ成し得た業でしょう。あまりに洗練されているので気づきにくいですが、「ウルトラソーダ」のボーカルエフェクトや「13番目の彼女」の大胆なディストーションギターの導入、「FLASHBACK」のヒップホップ的サウンドメイキングなど、平凡なポップスにはなかなか見られない特殊なアイデアがふんだんに盛り込まれています。もし、これらの異様さよりも曲のポップな側面の方に強い印象を抱いたなら、それは相対性理論が試みた新たな実験の成功と言えるでしょう。

 

この10年弱で音楽的には目まぐるしい変遷を経ていますが、決して相対性理論は摩訶不思議な邦楽インディーを奏でていたシフォン主義から変わってしまったわけではありません。むしろ、デビュー当初から一貫した音楽的ヴィジョンを頑なに守り、それを軸に様々な形でポップ・ミュージック/ロックンロールの再定義を試み続けているという事実が、こうして振り返ってみるとわかると思います。勿論、そのトライアルの中には成功も失敗もありました。でも、この「天声ジングル」は、相対性理論の3rd以降のやくしまるえつこのエクストリームな想像力が最もポップな形で爆発しているアルバムであることは間違いないでしょう。

 

と、最後の最後で再びサインマガジンの文章を引用、改変。スミマセン。相対性理論は現在進行中で進化と深化を遂げており、今作が集大成といった印象はありません。今後も「生きている」バンドとして、ソロ・ワークスとともに邦楽界を更新/再定義する存在であり続けると思います。

thesignmagazine.com

 

最後に、多くの著名人を魅了し、数々のコラボレーションを遂げてきたやくしまるえつこという人。その存在があまりに理想的で謎めいているので、実はゴーストライターなのでは…という危険な予感すらします。…まぁ、元々掴みどころがなく、実体のないようなバンドだった相対性理論に対しては、そうした疑い、思いを抱くのもひとつの「正しい」楽しみ方なのかもしれませんね。